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奇跡



聖書での奇跡を信じないある女性教師が学生たちに言った。

「聖書での奇跡は本当にあったものではない。

例えば、モーゼがイスラエルの民を率いて紅海を渡ったことではなく、6インチの深さしかないアシの原を渡ったのに海を渡ったと言われていることではないかと。 だから、それは奇跡ではない」

すると、その言葉を聞いていた学生が、「奇跡を通して神様にますます栄光を捧げます」

学生の話を聞いていた先生は、非常に不機嫌そうに「何の奇跡だと言うんですか。」

すると、その学生は、「海でもなく、もし6インチの深さしかない葦の上に、あの多くのエジプトの大軍隊を皆殺しにしたというのだから、それが本当の神様の奇跡ではないでしょうか。」 時代が変わっても聖書での奇跡は起こることを疑いなく完全に信じる時、私たちはそれを信仰と言う。 ところが、今日こんにちにおいて聖書での奇跡は過去に比べて起きていない。 なぜ聖書での奇跡が今日に現れないのか。 さまざまな理由があるだろうが、神に対する信頼、そしてその方のお言葉に対する信頼の問題 ということだ。 イエス・キリストは3年半の間、数多くの人々の前で奇跡を行い、死者を生かした。 イエスご自身も死から復活したが,反応は2つに分かれた。 神様を恐れ、信仰によって救われ、奇跡を経験した者。 そしてイエスが行おこなったすべての奇跡を疑う者だ。 それでは、聖書の奇跡を疑う理由は何か。 もしかすると、それはイエスが行ったそのような奇跡には何か秘訣があると考え、人間の能力でも 奇跡を行うことができるかもしれないという疑念からである。 今日の現代教会は、絶えず神様からの奇跡、聖書の奇跡を求める。 それにもかかわらず、世の中はそのような奇跡を疑い、調査して探求する。 しかし、「天からの奇跡」は人の考えと理性と経験と知識を超えるものであるため、これに対する 理解と納得を説明すること自体が不可能だ。 これについて聖書は奇跡を求めても受けていないと述べている。 3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。

世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。 (ヤコブ4:3-4) 今日において、福音の奇跡を全面的に信頼し、また求めているのか? それとも疑っているのか?


イム牧師

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